keikoasai’s diary

全ての感情は生きてるが故

4日目

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3月11日。

忘れられない日。

続いている。繋がっている。

 

当時わたしは山形にいて、兄が婚約者を連れてくる予定で、玄関の掃除をしていたんだよね。

ぐらっときたと思ったら、想像以上に長くて、母親が食器棚を支えにいつもは見ない機敏さで台所に向かったのを覚えている。

(母は脳卒中を一度起こしていて、いつもは少し歩きにくそうにしている。)

 

当時築30年くらいの家なんだけど、ミシミシいっていいるのがわかった。

 

その夜は停電していて、ろうそくを灯しながらウインナーとご飯を食べた記憶がある。

台所は寒いから、茶の間で毛布に包まったな。決して暗い雰囲気ではなく、おいしいねって言いながら、笑いながら、食べた。

ガスと水道は無事だったから、父が湯たんぽを準備してくれた。

 

その後は、避難所でボランティアしたり、新聞社に勤めていた兄の手伝いで大量のおにぎりを握ったり。

しばらくは太平洋側に行けなかった。

本当にちゃんと海まで行けたのは、1年くらい経った後だった気がする。

 

こんなことを書くと、誤解を生みそうなんだけど、でも敢えて書くと。

いつまでたっても、震災は、どこか、他人事に思える。

避難者さんの話を聴けば聴くほど、どんどん他人事になっていくような感覚。

多分それは、わたしの理解の範疇を超えているからなんだろう。

少しでも何か助けになりたいと思ったからこそ避難所に通った訳だけど、大量の支援物資を見ても、避難者さんの話を聴いても、自分事にはならなかった。

 

めちゃくちゃ冷たく聞こえるかもしれないけど、それがわたしにとっての現実なんだよなぁ。

 

わたしの震災当日の記憶は、機敏に動く母の後ろ姿と、ミシミシいう家と、ろうそく1本で家族と一緒に食べた夕食。

それさえも、わたしにとっては両親との大切な一つの思い出になっている。

 

結論が出る話ではないんだけど…わたしの震災の記憶として書き留めようと思った。

 

自分の震災に対しての言葉が、いつもどことなくよそよそしく感じていた。

決して嘘をついている訳ではないんだけど。

 

でも他人事だからといって、何もできないかというとそうではない。

自分事、他人事、違っていて当たり前。

それでも人は助け合える。それが社会性に富んだ“人”だから。

 

 

なんかこれ書いていたら両親に会いたくなったな。