94日目
『見栄』と『誰の目も無かったら何がしたいのか』ということ。
相変わらず自分の中を旅しているんだけども、中でも最近自分の中で心にとまったキーワード。
わたしは見栄で生きてきたんだなぁということに気づき、じゃあ誰の目も無かったら何がしたいのかと問いてみた。
ちょっと詳しく書き留めておこう。
フィジーから帰ってきた後、とてもしんどかった。
状況に心が追い付いてないのはもちろん、焦りや不安が常につきまとい、『動かなければならない。でもやる気が起きない。』状態が続いた。
前にブログに書いたかな。
魔女の宅急便の話。
キキが空を飛べなくなったときに、『魔法が無くなったら、私、何の取り柄も無くなっちゃう』って言うんだよね。
帰国直後この映画を観て、このセリフが心に刺さった。
キキにとっての魔法は、わたしにとっての協力隊だった。協力隊という夢をあきらめなかった自分、というか。
だからそれが突然無くなって(正確には、一時的に避難帰国しているだけで活動が終了している訳ではないし、例え終了しても夢をあきらめなかった自分は消えないんだけれども。)、『わたし、何も無い。』って思ったんだよね。
その時わたしは、協力隊に参加している自分をすごく誇りに思っていたし、逆を言えば、帰国して何もしていない自分にはOKサインを出せなかった。
でも、何かしなきゃという焦りはもちろんあったんだけど、わたしはこれまで『やらねばならない』『やるべきだ』『(気持ちが乗っていなくとも)やったほうがいい』で生きてきたから、ちょっともうその選択はしたくないと思っていて。
『やりたい』と思えることをしようとそれだけは誓っていた。やりたいことのためにやらなきゃいけないことはあると思うんだけど、スタートからやらなきゃいけないはもうやめようと。
そんなある日、友人と『見栄』の話になって。その時はあまり気に留めなかったんだけど、時間が経っても自分の心の中にずっと残っていて。
その時に、『あぁ、わたし、見栄の中で生きてきたんだなぁ』となんか腹落ちした感があった。
協力隊に再チャレンジした時は、自分の“やりたい!”がスタートだった。
で、いろいろ準備したり取り組むのが楽しかった。大変なこともあるんだけど、ひっくるめて楽しい、みたいな。
そうしていると、周りもすごくほめてくれた。浅井さんすごいね、いくつになっても挑戦して、なかなか決断できないよ、などなど…。
めっちゃ嬉しかったし、そのお陰でより自分の決断に自信が持てた。
でも知らない内に、“そうでなきゃいけない自分”ということに縛られ始めていた。
例えるならダイエット。
やせてきれいになりたい!という思いからダイエットを決意し、取り組む。(協力隊に挑戦しよう!と決め、準備する)
やせ始めると嬉しくて、よりきれいになろうと頑張るし、楽しくなってくる。(試験準備、訓練、大変なこともあるけど総じて楽しい)
結果が出てくると、周りからやせたね、きれいになったね、と褒められる。(挑戦したこと、決断したこと、実際行くことを褒められる)
でも段々と、“きれいになろう!”から“もう太りたくない、太っちゃだめだ”にスウィッチしていく。やせている自分に価値があり、そうでない自分は価値が無いと思い込む。(協力隊として活動したい!から、活動している自分はいい、活動していない自分はだめだ、につながる)
この最後がまさに帰国後のわたしだった。
そして、国際協力に携わりたいとずっと思っていたわたしは、すごくそこに固執していて、せっかくこういうフィールドに行けたし、せっかく英語上達したし、もっと頑張れば、もっと、もっと…と、なんというか、上向きにこう思えたらいいんだろうけど、手放したらもったいない、みたいな感情だった。
そして、友人と見栄の話になった時に、はじめは『挑戦したい!』という心から湧き上がるものからのスタートだったけれども、次第に周りからの称賛によって強化されていたんだなということに気づく。
その時感じた気持ちは、『ふーん。結局見栄かよー。』というもの。めっちゃがっかりする訳でもなく(多少の寂しさみたいなは感じた)、でもけしてポジティブな訳でもなく、なんというか、冷静に、あきらめ…?みたいな感じ…?まだうまく説明できないけど。
ちなみにダイエットの話も20代の頃の実体験だから、なーんだ、わたし変わってねーみたいな気持ちもあった。
でもそこから気持ちが楽になったんだよねー。なーんだ所詮見栄か、と思うことで、しがみつく価値が無いように思えたというか。
そして、『じゃあ誰の目も無かったら、一体わたしは何をしたいのか?』という疑問が生まれた。
続く。